すらんぷ
2002年3月8日とにかく、何をやってもうまくいかず、しかも悪いことばかり起こる日というのは、確かにある。
こういう日、あたしは何もしない。
というより、できないのだ。
今日はラスト○ゾートの一次面接を土壇場で辞退した。5分のプレゼンについて、何も考えていなかったし、履歴書の志望動機も真っ白だった。怠惰である。自分で辞退しておきながら、少しへこんだ。
又、今日はGAG○のES締め切りだったが、これもやめた。
大体、何の会社だか忘れていたし、ということは考え方とか拘りとか主張もなく、かくのが徒労に思われたのだ。
とは言え、家でやることなど特にない。
というか、さび付いた英語力を復活させるため、勉強をせねばならないのだが、こんな気分で机につける気もしない。
挙動不審に家の中を歩き回ったりパソコンをつけては消しして、ふと電話に手を伸ばす。
電話、つながらず。
立て続けに5回かけた。駄目だった。
昨日からつながらない電話。メールにも返信無し。
こんなに大変なのに、一体私の相方は何をしているというのだろう。
仕方がないから本を読む。
そして夕方、着信。
「3日前にしたたか酔っぱらって帰宅途中に顔面からこけて歯を折って、二日酔いになって体調を崩して今まで寝てた」そうである。
声を聞いてやっとホッとした。
そしてリクナビを開く。
ベネッ○のES合否通知。開ける直前に「通知」を「通過」とよんでしまい、♪〜で開けたそのとき、
「残念ながら・・・・・」という、ちっとも残念そうでないあの通知が。
「末筆ではありますが、就職活動のご検討をお祈りいたします」
それなら、入れろよ。
もう一つ、リクルートコンピュー○パブリッシングの通知こず。やっぱり落ちたのだろうな、分かってたさ、分かってた・・・。
−−−−−☆☆☆
スランプだなあ、と思うと、私が必ず思い出すことがある。
『魔女の宅急便』の絵描き・ウルスラの台詞である。「かいてかいて、かきまくる。それでも駄目なら、かくのをやめる」そしたらいつか、また突然描きたくなるそうである。
私達は日常を生きる上で、いろんな苦しみに出会う。そして、それらの多くを、さも自分や周りの人の力によって切り抜けてきたように思っている。
しかし、よく考えるとそうではない。
たいていのことは時間が解決するし、時間しか解決できない。そして私達の「努力」は、ただ、ごうごう音を立てて流れる川の中で無意味に足掻いているだけのことなのかもしれない。
そしていつも、時間の解決は「否定的」だと思う。
可能性の数が減っていく、という意味で。
ミヒャエル・エンデの『自由の牢獄』に、ある部屋に閉じ込められた男の話が出てくる。部屋には沢山の扉があって、どれかを開けると他の扉は全てロックされてしまう。どれも同じような扉で、選ぶ術はない。男は選ぶことが出来ずにその部屋で長い時を過ごす。眠って、起きる、そのたびに扉の数が減っていく。最後に扉の数はとうとう一つになり、男はその扉を開けることを余儀なくされる。
時間が経つ、ということはこういうことだと、近頃妙に納得する。
そして、一つの扉を開けると他の扉がロックされるということも。
デカルトの「われ思う、ゆえに我有り」と似ている。
私達は「もし〜していれば」と話すことはあっても、〜していた自分は存在しないわけで、存在するのは今まで自分の人生を歩んできた、仮定ではない、ここにいる自分だ。
自分がいる、だから自分が存在するのだ。
仮定は存在しない。仮定が存在するのは、ただ未来においてだけだ。
そして、時間が過ぎれば過ぎるほど、「仮定」は減っていく。
いつか私達は、どれか一つの扉を、そうでなければ最後に一つだけ残った扉を、開けることを余儀なくされるのだろう。
こういう日、あたしは何もしない。
というより、できないのだ。
今日はラスト○ゾートの一次面接を土壇場で辞退した。5分のプレゼンについて、何も考えていなかったし、履歴書の志望動機も真っ白だった。怠惰である。自分で辞退しておきながら、少しへこんだ。
又、今日はGAG○のES締め切りだったが、これもやめた。
大体、何の会社だか忘れていたし、ということは考え方とか拘りとか主張もなく、かくのが徒労に思われたのだ。
とは言え、家でやることなど特にない。
というか、さび付いた英語力を復活させるため、勉強をせねばならないのだが、こんな気分で机につける気もしない。
挙動不審に家の中を歩き回ったりパソコンをつけては消しして、ふと電話に手を伸ばす。
電話、つながらず。
立て続けに5回かけた。駄目だった。
昨日からつながらない電話。メールにも返信無し。
こんなに大変なのに、一体私の相方は何をしているというのだろう。
仕方がないから本を読む。
そして夕方、着信。
「3日前にしたたか酔っぱらって帰宅途中に顔面からこけて歯を折って、二日酔いになって体調を崩して今まで寝てた」そうである。
声を聞いてやっとホッとした。
そしてリクナビを開く。
ベネッ○のES合否通知。開ける直前に「通知」を「通過」とよんでしまい、♪〜で開けたそのとき、
「残念ながら・・・・・」という、ちっとも残念そうでないあの通知が。
「末筆ではありますが、就職活動のご検討をお祈りいたします」
それなら、入れろよ。
もう一つ、リクルートコンピュー○パブリッシングの通知こず。やっぱり落ちたのだろうな、分かってたさ、分かってた・・・。
−−−−−☆☆☆
スランプだなあ、と思うと、私が必ず思い出すことがある。
『魔女の宅急便』の絵描き・ウルスラの台詞である。「かいてかいて、かきまくる。それでも駄目なら、かくのをやめる」そしたらいつか、また突然描きたくなるそうである。
私達は日常を生きる上で、いろんな苦しみに出会う。そして、それらの多くを、さも自分や周りの人の力によって切り抜けてきたように思っている。
しかし、よく考えるとそうではない。
たいていのことは時間が解決するし、時間しか解決できない。そして私達の「努力」は、ただ、ごうごう音を立てて流れる川の中で無意味に足掻いているだけのことなのかもしれない。
そしていつも、時間の解決は「否定的」だと思う。
可能性の数が減っていく、という意味で。
ミヒャエル・エンデの『自由の牢獄』に、ある部屋に閉じ込められた男の話が出てくる。部屋には沢山の扉があって、どれかを開けると他の扉は全てロックされてしまう。どれも同じような扉で、選ぶ術はない。男は選ぶことが出来ずにその部屋で長い時を過ごす。眠って、起きる、そのたびに扉の数が減っていく。最後に扉の数はとうとう一つになり、男はその扉を開けることを余儀なくされる。
時間が経つ、ということはこういうことだと、近頃妙に納得する。
そして、一つの扉を開けると他の扉がロックされるということも。
デカルトの「われ思う、ゆえに我有り」と似ている。
私達は「もし〜していれば」と話すことはあっても、〜していた自分は存在しないわけで、存在するのは今まで自分の人生を歩んできた、仮定ではない、ここにいる自分だ。
自分がいる、だから自分が存在するのだ。
仮定は存在しない。仮定が存在するのは、ただ未来においてだけだ。
そして、時間が過ぎれば過ぎるほど、「仮定」は減っていく。
いつか私達は、どれか一つの扉を、そうでなければ最後に一つだけ残った扉を、開けることを余儀なくされるのだろう。
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